2012年07月07日
七七七七七七七不思議
七条七本松七不思議
その1 なぜここに、京都市中央市場があるの?
平安京が作れた時代から、中央を縦に朱雀大路が走り九条の羅生門の両側に西寺と東寺かの広大な敷地がありやや北側七条の両側に西市と東市が開かれた。七条から北側は、京都ができた頃から市場
その2 京都御所に迎賓館ができたが昔は?
京都が都の時代、中心の御所の内裏に迎賓館は考えられない。しかし当時からも中国韓朝鮮半島から多くを学んでいた時代東西に鴻臚館という外国人接待所が東寺西寺辺りから市場近くに移転した。
その3 いつから北東部に島原ができたの?
江戸時代から六条で拡大してきた遊郭を現在の島原に移転したから。残念ながら荒れ果てて市街地になっていた東鴻臚館跡です。移転の騒動を島原の乱に見立てたのが名前の由来。
その4 市場近くだから梅小路ができたの?
もちろんそうとも言えるが、都の中心が東に移り広い朱雀大路がJRの線路になり、京都に丹波丹後各地の食材が運ばれてきた。梅小路は、平清盛の広大な西八条邸のあったところ。
その5 何度となく大火にみまわれた都の火事に燃えなかった訳は?
残念ながら、応仁の乱を始めとする度重なる戦乱に、京都は度々壊滅的被害を受けた。そのたびに町衆が結束して都を再建し知恵と規律ができた。元々朱雀大路が巨大な空間であの東で起こった太郎と次郎焼亡の大火もギリギリ免れたようだ。京都に大路があるのも 火事の時向こうと両側三軒打ち壊して類焼を食い止め、後日町内でお金を出し合って共同で再建する申し合わせが、京都町衆の結束力
その6 京都に企業研究所が多いのは?
平安京は、船岡山から南に朱雀大路が作られたが、東の鴨川が早く整備されたのに対して大堰川今の桂川の反乱にはかなり手こずっている、更に西や南は、西日本の様々な勢力が都に押し寄せてくる時代、枚方までくらわんか舟が海から来れる時代、鬼門の比叡山方面に中心が引き寄せられたらようだ。田畑が多かったおかげでガスタンクが並んだ。お陰でリサーチパークは、バイオや産業創世拠点に
番組小学校博物館にヒントがある。国語数学絵画教育が基本に
その7 京都七口の一つ丹波口は、京都の玄関口?
七口には、それぞれ京都につながる街道から京都に入る玄関口の意味がある。丹波口は、朱雀大路の真南正に正面玄関口。鞍馬に向かう鞍馬口が烏丸鞍馬口だから、いかに御所や都が東にズレたかったわかる。応仁の乱で焦土となった京都は、革堂を中心に上京 六角堂を中心に下京 二つの京都ができた。二つの町衆が頑張って一つに結ばれた。七夕のように。
その1 なぜここに、京都市中央市場があるの?
平安京が作れた時代から、中央を縦に朱雀大路が走り九条の羅生門の両側に西寺と東寺かの広大な敷地がありやや北側七条の両側に西市と東市が開かれた。七条から北側は、京都ができた頃から市場
その2 京都御所に迎賓館ができたが昔は?
京都が都の時代、中心の御所の内裏に迎賓館は考えられない。しかし当時からも中国韓朝鮮半島から多くを学んでいた時代東西に鴻臚館という外国人接待所が東寺西寺辺りから市場近くに移転した。
その3 いつから北東部に島原ができたの?
江戸時代から六条で拡大してきた遊郭を現在の島原に移転したから。残念ながら荒れ果てて市街地になっていた東鴻臚館跡です。移転の騒動を島原の乱に見立てたのが名前の由来。
その4 市場近くだから梅小路ができたの?
もちろんそうとも言えるが、都の中心が東に移り広い朱雀大路がJRの線路になり、京都に丹波丹後各地の食材が運ばれてきた。梅小路は、平清盛の広大な西八条邸のあったところ。
その5 何度となく大火にみまわれた都の火事に燃えなかった訳は?
残念ながら、応仁の乱を始めとする度重なる戦乱に、京都は度々壊滅的被害を受けた。そのたびに町衆が結束して都を再建し知恵と規律ができた。元々朱雀大路が巨大な空間であの東で起こった太郎と次郎焼亡の大火もギリギリ免れたようだ。京都に大路があるのも 火事の時向こうと両側三軒打ち壊して類焼を食い止め、後日町内でお金を出し合って共同で再建する申し合わせが、京都町衆の結束力
その6 京都に企業研究所が多いのは?
平安京は、船岡山から南に朱雀大路が作られたが、東の鴨川が早く整備されたのに対して大堰川今の桂川の反乱にはかなり手こずっている、更に西や南は、西日本の様々な勢力が都に押し寄せてくる時代、枚方までくらわんか舟が海から来れる時代、鬼門の比叡山方面に中心が引き寄せられたらようだ。田畑が多かったおかげでガスタンクが並んだ。お陰でリサーチパークは、バイオや産業創世拠点に
番組小学校博物館にヒントがある。国語数学絵画教育が基本に
その7 京都七口の一つ丹波口は、京都の玄関口?
七口には、それぞれ京都につながる街道から京都に入る玄関口の意味がある。丹波口は、朱雀大路の真南正に正面玄関口。鞍馬に向かう鞍馬口が烏丸鞍馬口だから、いかに御所や都が東にズレたかったわかる。応仁の乱で焦土となった京都は、革堂を中心に上京 六角堂を中心に下京 二つの京都ができた。二つの町衆が頑張って一つに結ばれた。七夕のように。
Posted by こやまあきゆき at 13:41 │ comments:(0) │ 京都小山特選散策路