京つう

日記/くらし/一般  |左京区

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日本近代陶芸の祖。
京都芸術大学陶芸科生みの親。
(東京芸大・嵯峨美などは、その弟子が開いている)
東京・名古屋の続いて、ようやく京都展が開催されます。
◎国展(もともと洋画の美術展。富本の陶芸の部屋がきっかけで、工芸部が生まれる。東京の民芸館とともに、民芸運動の創生期の舞台)
◎文展・(帝展・文展・日展の元。1部日本画・2部洋画・3部彫刻に続いて4部工芸・5部書と展開する中の4部に陶芸・染色・織物・金工などが加わる後に皮工芸・ガラス工芸など)
◎「新匠工芸会」工芸家のみの、最初の美術団体。特に官展的文展の流れに対し、当時は、在野の初めての美術団体として、人気を得た。若き「走泥社」や「モダンアート」「女流陶芸」などの運動を起こしたリーダー達も、初期には、自由な創作を標榜する、富本の「新匠会」に多く出品していた。
◎「伝統工芸展」(人間国宝・日本工芸会設立へ。)技官で古陶磁の研究家であった、小山富士夫らの努力で、選抜展開催からスタート。初期の選抜メンバーは、鈴木清を除いて、ほとんど人間国宝に選抜され、これによって、人間国宝を中心とした、伝統工芸の全国各地の選抜展的美術団体となり、「新匠会」の主力メンバーも、人間国宝などに選抜されていった為、創作的な「日展」と二分する勢力となった。
*尚、鈴木清は、富本の盟友として、唯一すべての団体で行動を共にした作家。富本全盛期の、京都時代の工房は、鈴木家内に開かれ、「新会匠」の事務局も当初ここに置かれた。2人は、工房も並べ、よく遊びに来た、型染めの第一人者、稲垣らと熱く語り合った。富本の死後2人は日を、置かずに他界。地域から、1芸で2人芸国宝は出さず。は富本が小山に強く求めたものだった。
京都や東京に偏ることなく、全国各地の優れた伝統技芸が取り上げられる事を願っていた。その活動を、女房役で支えたひとりが、鈴木清であった。民芸の河井のように・・・。


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Posted by こやまあきゆき  at 01:24   │  comments:(0)  │   芸術の都京都



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